臼井吉見記念館について―続き 18.4.23「安曇野」という言葉 昨日図書館より御借りした本を読む。その中に「安曇野」についての記述を見つける。加藤勝代は『わが心の出版人』(加藤勝代1988河出書房)で次のように記している。 「詩人河井酔客の未亡人で重厚な小説をかきはじめていた島本久恵さんは臼井さんの今度の作品の題名『安曇野』という言葉は今や可也り世の中に普及して来たが、私が調べたところでは、これは臼井造語である、と言った。『安曇』という語は穂高近くの地名としてあるが『安曇野』という呼び名はなかった。『安曇野』という大変豊かで美しい表現を創った臼井さんに敬意を表する、と島本久恵さんは言った。 これは臼井吉見の大作『安曇野』の雑誌連載が完結して、その祝賀会の時の島本久恵さんの祝辞とのこと。祝賀会は昭和48年12月頃、『安曇野』の主要人物である相馬愛蔵、相馬黒光夫妻が築き上げた東京新宿の中村やの五階広間で開催された」(140p~)。 島本さんは「安曇野」の語源を臼井吉見の造語としているが、『臼井吉見の安曇野を歩く(市民タイムス郷土出版2005)』では「臼井吉見は『安曇野』という地名を広め、定着させた小説」としているが、語源には触れていない。私はどこかの本で「安曇野という言葉は昔からあったが、それを世に出したのは臼井吉見である」との一説を読んだ事がある。私は「安曇野」の語源を調べてないので判らない。時間を見つけて調べてみたいと思う。 18.4.24 「安曇野」を書いた動機 「安曇野を行く」に臼井吉見が安曇野を書いた動機を次のように述べている。
『安曇野』は今からおよそ百年前の明治30年代を幕開きに大正、昭和にかけての日本と日本人を書き綴った大河小説である。筆者は南安曇郡三田村に生まれた臼井吉見。「安曇野」という地名を広め、定着させた小説であると同時に太平洋戦争の敗戦に至る近代日本の国家とは何だったのか、デモクラシーはなぜ育たなかったかを問う、重い主題を持った大作である。(中略)臼井は昭和49(1974)年東筑摩郡教育会の講演で『安曇野』を書いたわけを述べている。(中略)世界42ケ国を相手に戦争をして袋だたきにあった。(中略)とてつもない事態に自分が生まれて育った時代が突入したのは、いったいどういうわけなんだろう。そのいきさつをつきつめてみたいっていうのが『安曇野』を書こうとして一番強い動機であります。
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