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長野県民の心の中になぜ藤村が生き続けているのか (知事と対面、信毎、市民タイムス、民放テレビ?)
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なぜ山口村が長野県に残ってほしいか(信毎、市民タイムス)

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2004/11/8
長野県民の心の中になぜ藤村が生き続けているのか (知事と対面、信毎、市民タイムス、民放テレビ?)
16年11月8日記者会見をし合併反対の理論的根拠の一つとしてのこの論文を発表。また、田中県知事に面会、長野県議会議長に論文をお渡しすると共に、長野県に山口村が留まって頂くよう依頼する。論文は以下の通りである。
論文要旨:
 私は「長野県民の心の中になぜ藤村が生き続けているのか」疑問に思いました。そして、藤村と信州人との関係について調べてみました。
 その結果、信州教育の中で長野県民に藤村が植え付けられ、内面化されていったこと、そして、県民への内面化が藤村記念館建設となったこと、そして、そこに一大文化遺産が形成され、今や大観光地となったことが判りました。
 ところで藤村は信州をどう捉えているのでしょうか。藤村の作品はすべて信州に資料を求め、信州に潜む社会的問題をテーマとしています。
 それだけに藤村は信州をこよなく愛していました。
 そして、「血につながるふるさと、心につながるふるさと、言葉につながるふるさと」という美しい言葉を残しています。ふるさとは藤村にとって山口村のみをさすのではないと思います。広く長野県を指していると思います。
 「藤村は信州に生まれたので、藤村になったのです(山崎斌)」。
  文化はその地方の風土の中で生まれ、そこに住む人々の手により構築されます。山口村の藤村の遺産は山口村の人々のものであることは勿論ですが、長野県人が共に構築したものだと思います。だとしたら山口村は信州のくくりの中にいて頂くのが一番似合うのではないでしょうか。山口村の皆様におかれまして葉御事情もおわりとは存じますが、私たち県民の気持ちも御理解頂き、長野県にとどまって頂きたいと思います。

はじめに

 「私の心の中に、そして、多くの県民の中に、なぜ島崎藤村が生きているのか」そして、「藤村は信州をどう捉えているのか」--そんな疑問をもった。それが山口村の合併問題を考える時、かかわりあいがあると考え調査することにした。

I.多くの県民の心に、なぜ島崎藤村が生きているのか

 まず「私の心の中に、そして、多くの県民の中に、なぜ島崎藤村が生きているのか」について考えてみたい。私は信州教育がそのことに関係しているのではないかと思った。なぜならば、家父長制意識の形成をみた時、明治、大正時代、そして、第二次世界大戦までの日本の家父長制教育が大きく関わっているからである。同意識は再生産され現在も多くの国民に内面化され女性問題を生む要因となっている。
 そこで「明治時代、信州教育において島崎藤村をいかに扱っているか」を調べていった。信州教育の月刊誌「信濃教育」、その他信州と藤村についての多くの研究書にめぐりあうことができた。特に、信濃教育会月刊誌『信濃教育800号(s28.8.1)』は「藤村記念特集」として発行されていた。編集後記には「この特集は…藤村と信州とのいろいろな面においての浅からぬ因縁から出発して特に郷土的色彩に富む、従って信州でなくては得られないような内容…」と(上条:107)されている。

1). 記念堂の建設と藤村資料館の完成まで

★ 藤村先生の急逝と藤村記念堂
 信州の人々の藤村への思いはどうであったろうか。「『灯台もと暗し』『偉人は郷土に入れられない』の古言のごとく生前の藤村は木曾からはとかく疎遠にされぬではなかった。ことに『新生』後の藤村には相当の反感さえもあったようである」(川口s28:86-89)。しかし、昭和11年(藤村64歳)頃から状況が変わってきている。 
 安藤茂一は記している(安藤:93-98)。「木曾教育会は藤村資料館を作ることを昭和11年に計画し藤村先生の了解を受け、先生の作品による青少年向けの図書の刊行、記念講演なども計画、また、昭和15年(藤村68才)には、給料からの拠出金を出す事を決定している。藤村はその事を喜び『作ってくれるなら馬籠の本陣の隠居所を…』と言っている(注1:参照)。
しかし、昭和18年(藤村71才)、藤村先生の急遽により、昭和22年藤村記念堂が作られたが、これは馬籠の人々の心からの労力奉仕によるものであった(安藤:93-98・注2:参照)。

★ 藤村資料館(藤村文庫)をつくりたいとの願い

 しかし、記念堂落成以来「年毎に訪ねて来る人々が全国各地から増加……(藤村資料館)を急速に完成する必要が出てきた。…そして、それは郷土のみならず長野県の使命であり、又、誇りであり尊い文化財保存上緊要であり……、また、藤村記念堂完成以来、是非懸案の記念文庫を作りたいと一同が苦心していたことでもあった(安藤s28:93-98p)」。藤村資料館建設への経過を以下に記す(安藤s28:93-98p)。

・ それを作るには法人組織の団体を作る必要があった…。
・ ふるさと友の会は…記念堂並びに隠居所を新しい法人団体に寄付…満場一致で議決くだされた
・ 島崎楠雄さんからは4195点見積価格745万円…の貴重な先生の著書蔵書愛品などのご寄付…
・ 県教育委員会の懇切なるご指導と設立代表者一同の御協賛によりまして昭和25年8月20日付許可…。
・ 9月1日から藤村記念文庫建設の事業に着手…
・ 県からは…26年3月30日…金26万円の補助金の指令…。
・ 本村においても10万円の補助…更に昭和27年度においては10万円の補助…。
・ 木材は馬籠営林署から木曾の五木、檜の名木を払い下げ下され、
・ 谷口先生からは重ねて見事なご苦心の設計書を……、
・ 石井先生からは…藤村先生の寿像のブロンズの御寄贈

★ 寄付金が集まらなく――全県下の生徒に依頼

 ところが「工事の…経費面においては、予算の寄付額は思わしからず其捻出に腐心致し数次の役員会において慎重審議(安藤28:93-98)」した。そして、全県下の学校に寄付を呼びかけることになった。経過を安藤茂一は次のように記している。

「・木曾教育会並びに神坂村の共催で、
・第一に信濃教育会のご協力御援助をお願いする必要性から、島崎楠雄さんと一緒に副会長松岡先生を訪ね…詳細を申し上げし所深いご理解を頂き、ご後援をご快諾願い
・信濃毎日新聞社、西筑摩郡町村会、西筑摩郡公民館運営協議会などの御後援を得
・全県下の各学校、文化団体、各社会各層の御賛助御協力を仰ぐ
・建設趣意書を印刷、昭和26年10月9日先生の第9回の御命日を卜し配布致しました。
・郡の町村会においても、20万円の御寄付の決議…感謝のいたりであり…」(安藤s28:93-98)。
ところで、この間の状況を松原常雄は名前を挙げて記している。興味深い記述である(松原s28:99-105 注3参照)。安藤茂一の記述を続ける。
・「案内所及び休憩所の工事…昭和27年2月21日ふるさと友の会員の朗読奉仕によって上棟式もほとんど完成し、…5月4日…落成の内祝…。
・7月31日には東京よりその後の資料や日本唯一の明治・大正・昭和三代の350冊の詩集のコレクションが到着…。
・8月9日…東京から「島崎藤村全集」編纂主任島崎翁助さんの御出でをいただき…陳列に着手猛暑の時期…土蔵内にて無休の状態にて陳列下され8月21日陳列を完成…。
・昭和27年8月22日藤村先生御命日…記念文庫の一般公開…」(安藤s28:93-98)。

「村内多数参加。公式披露の落成式は農家繁忙の都合により昭和27年11月14日に行う(松原s28:99-105)」。その間地元の人60人による労力奉仕、中学校生徒教員200名、小学生400名の労力奉仕ある(松原常雄(s28:99p-105)。

★ 浄財の中心は全県下各学校ならびに信濃教育会であった
 安藤茂一は文頭で「全県下の学校の方々を中心とした御協力によって見事に完成されました藤村記念館こそ、…本県の誇り…」と書き、また、稿の終わりにも「この稿を終わるに当たり…全県下各学校より甚大な御協力を頂いた……信濃教育会はじめ全県並びに東京はじめ各地からの御援助を頂いた多数の方々に衷心から感謝の誠を捧げる次第であります」(安藤:93-98)と記している。また、松原常雄(s28:99p-105)も「藤村資料館建設の仕事の成就した根本動機をみるに何といっても県下学童の浄財が、金額は兎も角として中心をなしていた。これは木曾教育会、信濃教育会の理解ある態度であったと思う」(松原常雄s28:99p-105)」としている。いかに全県下各学校ならびに信濃教育会の力が大きかったかが推測できる。
 松原常雄(s28:99p-105)は「 (来訪者に)今度こそ、…この記念堂ならびに資料館に藤村を満喫して帰って頂けると思う」と結んでいる。なお、疎開先の資料は島崎楠雄氏の奔走により藤村資料館の集めることが出来た(安藤:93-98 注4)。

2). 如何にして各学校から浄財を集めたか---信濃教育会の動き

 全県下から、どうして藤村資料館の浄財を集めることができたのであろうか。浄財は信州人の心が伴わなければ拠出することは出来ない。私は信州教育が藤村への思いを長い時間をかけ、培ってきたのではないかと思う。そこで信州教育が、どのように藤村を扱ってきたかを調べた。

★ 信濃教育会による「藤村の読物の普及」

 昭和に入り、信濃教育会は児童の読本、国文読本、木曾路など長野県内青少年向けの藤村の読物を多量に出版している。『児童の読本』は昭和2年(藤村55歳)であるので、この時に小学生であった人は80歳くらいになっている。これらの書物によっても、信州人は島崎藤村と同一化されていったのではないだろうか(川口s28:86-89 注5参照)。文中にある出版物の出版年度、出版版数を調査したところ、次のようになっていた。

『児童の読本』1927(昭和2年=藤村55歳)1月初版 信濃教育会編者(S2生まれの人は77歳になる)
 1の巻 藤村作5/23作中 2版 ・2の巻 10/25作中 4版 ・3の巻 13/25作中 2版 ・4の巻 7/13 作中2版 ・5の巻 4/19作中 2版 ・6の巻 6/18作中4版)
木曾教育会代表原和海s12年5月『木曽路上』木曾教育会 非売品
木曾教育会代表原和海s12年6月『木曽路下』木曾教育会 非売品
信濃毎日新聞編集、発行・『国文読本後期巻一』t15初版、s711版、s8改訂発行(藤村作品1/11)・『国文読本巻二』t15初版 s7年11版 s8改訂発行(藤村作品4/12)・『国文読本巻三』t15初版 s7年11版 s8年10月改訂発行 s8年12月再販(藤村作品1/13)。

 また、島崎藤村作品をすべて掲載している『藤村少年読本』[尋一の巻109p 二の巻123p 三の巻142p 四の巻149p 五の巻157p( 六の巻蔵書なし)高等科用(7巻)162p]が昭和5年(藤村45歳)、采文閣から出版され、大正9年(藤村48歳)には実業之日本社から童話集『ふるさと』が大正3年(藤村42歳)には『幼きものに』が全国に向けて多量に出版されている。『ふるさと』は木曽路のことを記した本である。特に『ふるさと』はT13年32版にもなっている。また『千曲川のスケッチ』はかって中学の副教科書に用いたこともある」(矢沢s28:30-35)という。これらも信州の事を記しているので長野県の子ども達に藤村=信州の意識を植え付けていったと思われる。

★ 藤村資料館(記念文庫)をつくるための信州教育会の意図的な動き
 信濃教育会の前述の本の出版は藤村記念館の建設を意図としたものではないが、藤村資料館建設のための世論喚起のための計画的な信州人への啓発も行われていた。郡下各村にわたる藤村講演会の開催、藤村作品の研究会、学校で「夜明け前」などの読み合せ、木曾夏季大学で藤村講座を毎年実施、藤村詩作曲集の編集、藤村詩を各中学校の音楽教材に使用などを実施した(川口s28:86-89 注6参照)。
 なお、「没後10年…没後の全集19巻は近時その例を見ないほどの巨大な読者を持ちつづけた(山崎s28:46-50)」。全国向けの発刊と思われるが藤村は信州のことを題材にしているので信州の人々の心に入っていく要因になったと思われる。
 以上藤村と信州人との関係を見てきた。藤村記念館建設案はかなり早くから出されている。また、藤村記念館建設の前から信濃教育会では藤村の本を数多く出版しているが、建設計画が出てからは世論形成のために意図的に本の出版、講演会、研究会などを実施している。そのような行動を通じて信州人の中に藤村が内面化し生き続けていくことになったのではないか。また、それによって浄財を集めることが出来、藤村資料館が出来、それによって信州の人々の多くが山口村を訪れるようになったのではないか。つまり、それが藤村文化、馬籠観光の基礎となったのではないだろうか。

II.藤村は信州をどう捉えていたか。

 ところで藤村は信州をどう捉えていたであろうか。藤村が信州をこよなく愛していたとしたら、やはり藤村は信州にいるのが似つかわしいと思うからである。また、文化はその風土の中で、そこに住む人によってつくられると思う。文化と風土と藤村に関しても調べてみたい。

★ 信州を舞台にして描き続けた父

 島崎藤村は信州を舞台とした社会的テーマを書いている。子息の島崎翁助は次のように記している。「『破戒』における部落民解放に繋がる主題、『家』における家族制の束縛による人間関係、そこからおこる悲劇、『新生』における精神と肉体の救済、『夜明け前』における封建時代の退潮と明治維新がはらんだ矛盾、そこに生きた人間の悲劇---こうして並べてみれば、藤村の一生を通じて、その思想の根底にあったものが、およそ何のようなものであったかは自明のことである。…近代人としての自覚であったことは今日の研究者が等しく認めているところである(島崎翁助s28:41-44)」。
 また、藤村は作品の資料を信州で集めているが小野己代志は「…この時の先生の旅行目的は『夜明け前』の資料探しであり、馬籠を中心に木曽路を北へたどられ、28日には奈良井のトクリヤ泊まりで、29日には下諏訪へこられたのだ。…」と記している((小野s28:51-55注7参照)。

★ 「血につながるふるさと、心につながるふるさと、ことばにつながるふるさと」
 腰原哲郎は(わずか10才にして上京した)「藤村が作品も含めて故郷に密着しているという点では他の作家にくらべて際だっている。…。機或るごとに山中の木曽路を語る」と藤村が如何に故郷に密着しているかを記している(腰原S52:167-176)。次の言葉はその一こまである。「藤村は大正11年(50歳の時『故郷を思う心』で次のように言う。…。…。『人の生涯はほとんどその出発点できまるということは以前から学んでいたが、近頃ことにそれについて思いあたることが多い……大体において、人間はごく幼い少年時代にすでにその生涯の道がきまるのではあるまいか……自分の生涯に及ぼす郷里の影響を軽々しく思うわけにはいかない』と」(腰原 同上)。そして、藤村は「自分も学んだとこのある小学校で美しいことばを告白する。……『血につながるふるさと、心につながるふるさと、言葉につながるふるさと』という言葉がそれである」(腰原 同上)。
 美しい三つの言葉について腰原哲郎は図式化している。
「言葉につながるふるさと」は故郷を美しく浪漫的にとらえている。10歳から「落梅集」の小諸時代(30才)までの故郷としている。
「血につながるふるさと」は暗い現実的な故郷をさし、(30歳)から新生事件落着の(50才)までの故郷としている。
 そして、「心につながるふるさと」は明るい客観的な故郷をさし、長男帰農(50歳)から没(72歳)までの故郷としている。腰原哲郎の文中より、其々の時期の記述の一部を引用させて頂く。次の注8-10を図式と重ねてお読み頂きたい。
(注8)「若い青年時代は…浪漫的に眺めていた」((腰原 同上)。
「明治42年(38歳)の時『家』準備のため…10年ぶりで木曾に足を踏み入れている。…。家にまつわる払いがたい歴史への恐怖と旧家に対する奇妙な誇りである。……浪漫的なふるさとは、たちまち「血に繋がる」暗い像の一転に絞られてたちあらわれる。のろわれた血につながる憂鬱な壮年期は、かくて「新生」の完結まで続くことになる。…。(そして)それは純粋であつた幼児期への追憶である。大正6年(46歳)フランスから帰った藤村は信州で講演する。「…異国の旅にはいまさらに小さい時に失った親の愛を呼びおこし……故国が恋しくなりました」…、藤村にあっては木曾がその中心を占める。童話集『ふるさと』の出現は老境にかかる藤村の心境の象徴とみて良いだろう」(腰原 同上)。
(注10)「大正15年(藤村68才)…木曽路へやってくる。…長男の住む緑屋新築落成をみるために。おそらくこの年の春であろう。…小学校で美しい言葉を告白する。「藤村記念堂」の壁にかけられている「血につながるふるさと、心につながるふるさと、言葉につながるふるさと」という言葉がそれである((腰原 同上)。

★ 藤村が故郷を思う心と信州人の藤村を思う心――研究者のことば
 伊東一夫は「彼の小説や童話の世界が、彼の身辺を主軸として形成されているように、故郷はその作品の中で求心的な位置を占めている。晩年の大作『夜明け前』は故郷復帰への総決算である」 (伊東一夫s26:10) と述べている。
また、伊東一夫は「信州の風土が藤村と赤彦の二人の人間と芸術の性格と傾向とを強く限定している」とし、文芸風土学の上で「中部山岳圏」とまとめている(伊東s26:6-15注12参照)。
 藤井悦雄も「藤村は、はっきり『過去は現在である』といっている。この過去は内部に生き続けている経験とか習慣とかの意味にもなる」と記している(藤井悦雄s28.:5-10)。
 山崎斌は「藤村は信州に生まれたので、藤村になった」と述べている(山崎s28:46-50注:11)。

★ 藤村と信州の人々とのかかわりを調べて

 まず「藤村と信州人との関係」を見てきた。信濃教育会では藤村の本を数多く出版し、藤村を信州の子ども達に広めていった。そして、藤村記念館建設計画問題が出てからは世論形成のため意図的に本の出版、講演会、研究会などを実施している。それらの行為により藤村記念館建設にあたって全県下の生徒児童から浄財を集めることが出来たのでないだろうか。そして、その結果として信州人の心に藤村が生き続けることになったのではないだろうか。更には多くの信州人が藤村の里を訪れる事となり、それが基礎となり、馬籠が現在大観光地となっていったのではないだろうか。
 一方、藤村は信州をどう捉えていたかをみた。藤村の作品は信州を取材し、信州の社会問題をテーマとして書かれている。藤村作品は信州の風土だからこそ、生まれた。また、藤村はこよなく故郷を愛している。そして、藤村は「血につながるふるさと、心につながるふるさと、言葉につながるふるさと」と美しい言葉を告白している。藤村にとって故郷とは馬籠のみをさしているのではなく、長野県全体を指していると思われる。
 以上から藤村の生誕地を抱える馬籠は信州にあってこそ光ると思う。それが最も自然だと思う。

12.今思うこと

 山口村が私たちにかくも重要であったにも関わらず、長野県民はどの位木曾の方々に思いをかけていたであろうか。県庁は長野の北端にあるにも関わらず、遠路、足を運ばせることを当然の事としていた。この際、私たちはまず次のような点をみなおすべきだと考える。松本市に長野市と同等の事務所をおくべきである。最近、松本に県庁の分室が出来、知事がたまにおいでくださっているようであるが、その分室をもっと充実させ、長野市と同等にすべきではないかと思う。このような処置は信濃毎日新聞では、ずっと前から実施している。同社は松本を長野本社と同格に位置づけ松本本社としている。
 つぎに「行政サービスに融通性をもたしたら」と思う。私がその事をいうと友人が「日本は縦割り行政だから無理だ」と言う。先日ある雑誌の記者が来られた。その方が「山崎さんNTTの局番は中津川なんですよ」と言った。なぜNTTが出来るのに、行政ができないのでしょうか。行政改革というならば、このような行政をまずやって頂きたい。
 最後に腰原哲郎の言葉を記す。「藤村の思卿の念は故郷の人々が藤村を思う心よりはるかにつよかった。生前は藤村の心が故郷を圧倒していたが、死後は故郷の人々が藤村を圧倒した。そして逆転する接合点は藤村の側からすれば……「心につながるふるさと」と藤村が講演した大正15年前後ということになる。故郷の側からすれば記念堂が完成した…昭和22年前後ということができよう(41.7.7)。前者による接合の象徴は『血に、心に、言葉につながるふるさと』という三行の言葉が藤村の告白として吐かれ、…人々と結合されて…結晶した点にある。後者による接合の象徴は神坂村の岐阜県合併問題が起こった時分裂しながら記念堂が長野県にのこったことである(腰原哲郎S52:167-176)」。
 今、また、山口村の越県合併が起こっている。信州の人々は藤村を過去の人と葬りさるであろうか。それとも長い時間をかけ、多くの人の手によって構築した藤村文化の積み重ねの結実を尊ぶであろうか。文化は人によって、その風土の中で形成される故に---。

引用文掲載
注1――「昭和11年(藤村64歳の時)木曾教育会創立50周年として教育会館の建設、藤村文庫の設立、藤村の歌碑の建設、郡歌の制定、青少年読物としての『木曽路』を主として藤村先生の作品中、青少年向けの創作を採録した図書の刊行並びに藤村先生の記念講演会などの計画をしまして…先生のお宅へおたずねし、先生のお許しを得、記念講演のことも御承諾を頂きました。…その後やむを得ず出席できないとのお便りを頂きましたが…。昭和15年には紀元2600年記念事業として……藤村文庫などの懸案の進展を計るために全会員月々俸給の千分の七を拠出積み立て…全会員の賛同を得ましたので……先生をお尋ねいたしました。…。「木曾教育会は自分の文庫を作ってくれるそうだが、作るのならばあの馬籠の本陣の隠居所を…」とのお話。本陣の隠居書は先生10才のときまで父正樹翁によって少年期の勉学にいそしまれた由諸の場所であります」。木曾教育会は全会員月々俸給の千分の七を拠出積み立てして藤村文庫などを作ろうとしていた。
注2――昭和18年8月22日先生に急逝の報…。藤村先生を敬愛する馬籠の壮年青年層を中心とした同志の人々120人余名によって『島崎藤村ふるさと友の会』が組織され、昭和21年2月…力強く発会…」(安藤茂一28:93-98p)。「ほとんどが30代から40代の年配で、農業に従事し、…中堅をもって任ずる連中であった。…馬籠が一大奮起をもって、これに応えなければならぬことに始まった…。…。藤村記念堂の建築が第一期工事になり、私の夢としては、……せめて第一期工事だけは馬籠の人の地力で完遂したいこと、…。資材を購入する金は、…工面するが、労力はいっさい無償で、お互がこの仕事のために奉げるではないか…。(となった。そして)…昭和22年1月ふるさと友の会発会式。馬籠だけで97名。昭和22年11月15日に落成する」(菊池重三郎「木曾馬籠」28:72-80p)。このころの訪問客は少なく「…昨秋記念堂も落成した。毎日4-5人詣でる人もありよしで…」と記されている(山崎:s28,46-50)。
注3――昭和26年8月19日島崎、安東、松原が教育会に青木会長を訪ね資料館建設について協力を求む。同年9月5日島崎、安藤が県教育委員会へ…、信濃教育会をたずね協力方を懇請。同年9月10日原村長と島崎が郡町村会へ町村会長をたずね協力方依頼。同年9月20日島崎、安藤、松原が資料館建設の趣意書、事業計画、予算印刷のための打合わせ。同年11月3日角間、中村県議へ県議会への協力方依頼(s28:99p-105)。
注4――:「福島県の一寒村の疎開先から藤村の資料を、どこにかえすかの議が起こった。…。しかし、藤村の作品はふるさとの自然と人とを結びつけねばならぬ性格をもっている。ぜひふるさとに移して遺品とともに藤村研究の資とし記念堂のみの物足りなさを払拭しなければならぬ、それにはこれら重要資料の受け入れ策を即刻考えることが焦眉の問題だ。そのうちわれわれの祈念したごとく島崎楠雄さんの奔走により…来ることになった。5月14日午後書籍木箱26個到着」(松原s28:99p-105)。
注5――「信濃教育会は(昭和2年)「児童の読本」を6巻にわたって出版し、郷土の作家として藤村の童話その他を多数取り入れ、青少年読物の『国文読本』の中にも藤村を入れた。木曾教育会は当時の会長原和海先生の時代、郷土出身の作家並びに郷土から取材された少年読物の編纂に着手し、……昭和12年以後『木曽路』上下2巻、上級用償還を出版した。上巻は全部藤村作のもの、他の二巻は藤村及びその父正樹翁を多数取り入れたものである。…、この読物の出版を計画した時藤村は喜んで出版の許可をせられた(川口s28:86-89)」。
注6参照――「藤村記念堂が出来たのが昭和22年、藤村資料館が出来たのは昭和27である。
「・藤村記念文庫を藤村の生地神坂村馬籠に作ることが教育会の議にのぼり
、藤村のお許しを得るために、教育会正副会長が…お尋ねし、趣旨をお話したところ大変賛意を表され…。
・教育会が中心なって計画し、世論喚起のために、……郡下各村にわたり藤村講演会を開催
・友の会の力で記念郷は具体化され現在に発展した。現在も木曾教育会長他1名がこの記念郷の理事となっている。
・藤村作品の研究も順次おこり「夜明け前」などの読み合せをやった学校もあるし、
・木曾夏季大学には藤村講座を毎年取り入れ… ・藤村詩の作曲集は…編集され、各中学校の音楽教材として取り入れられ、「朝のうた」は教育会歌のようになって、教育会の諸会合には常に唱和されている。信州人の会合にはよく「信濃の国」が唱和されるが木曾の人たちの会合には藤村詩がいつも愛唱されている。藤村は今木曾の人たちの心に蘇っている」(川口=長野市教育委員会管理主事)(s28:86-89p)。
注7――小野己代志は「昭和4年9月30日の私の日記には、昨夜は亀屋へ藤村先生を訪ねた。…。この時の先生の旅行目的は『夜明け前』の資料探しであり、馬籠を中心に木曽路を北へたどられ、28日には奈良井のトクリヤ泊まりで、29日には下諏訪へこられたのだ。…。本堂の正面の軒にかかった扁額には『官有林木伐採禁』の文字があり、島崎家と木曾御料林との関係もうなずかれた」(小野s28:51-55p)。
注8-10――文中に掲載。
注11――「すべては、その生まれたる所に帰るといふ。彼、藤村が年少にしてうたひ出でた詩において言ってゐる所---千草も知らぬ冬の日の。……。さういえば『夜明け前』の執筆もまた、彼にかせられた命運であった。『家』もまことにそれであり、……。特異な存在を見るべくば、必ずそこに特異なる母体をもつべきである。それにしても、もし、この人にして他の地方の山上に、又、河辺に生まれしめたなら、まさに大にその質を変じてゐたらうにと言い得る様におもふのである。謂ってみれば藤村は信州に生まれたので、『藤村』になったと言ってもよいと思ふのである」(山崎s28:46-50)。
注12――「信州の生んだ藤村と赤彦の芸術が……そこになまなましい信州的な体臭を感ずるのは、一面には彼らがこうした故郷への愛着と思慕の情をいだいていたことにもよるであろう」(伊東一夫s26:6)。「以上各方面にわたって藤村と赤彦との比較を試み……彼らの類似性は実に驚くべきものがあるのである。……このような等しい方向に限定していった力は何であろうかということである。私はこの問題を文芸風土学の立場から考察…。……。私は…文芸風土圏として次の6つを想定している。
東北圏(ここに故郷をもつ文学者は啄木、健治、茂吉など)、新潟北陸権(未明、御風、安吾、八一等)、
関東圏(漱石、公用、龍之介、潤一郎など)、関西圏(ほうめい、晶子、春夫、など)、中国、四国、九州(与一、芙美子、鴎外、白秋、牧水など)、そして、中部山岳圏(藤村、赤彦、政雄、尚江、成吉、たい子など)の6圏である。……。藤村と赤彦は中部圏の文学者として、信州の風土は彼らの人間と芸術の性格と傾向とを強く限定していると私はみている 」(伊東一夫s26:14-15p)。(諏訪市清陵高校教諭)

参考文献:

(1) 島崎藤村「木村熊二翁の遺稿(s11. 1 )『信濃教育775号』雑誌信濃教育会
(2) (藤村記念特集)(s28.8.1)『信濃教育800号』雑誌信濃教育会
・ 藤井悦雄 5-10「藤村文学の本質と傾向」
・ 矢沢邦彦 30-35 「藤村の童話について」
・ 菊池重三郎72-80「木曾馬籠」
・ 川口五男人(長野市教育委員会管理主事)86-89「木曾教育会と藤村」
・ 安藤茂一 92-98「藤村記念館の完成まで」
・ 松原常雄99-105「藤村資料館落成と回顧」
(3) 伊東一夫「藤村と赤彦」 (s26. 6 )『信濃教育775号』雑誌信濃教育会
(4) 松原常雄「藤村記念郷」 (s26.18 )『信濃教育774号』雑誌信濃教育会
(5) 笹村草家人「藤村先生造像経緯」(s25. 18 )『信濃教育757号』雑誌信濃教育会
(6) 伊東一夫「藤村先生における近代の憂鬱」 (s31. 10 )『信濃教育831号』雑誌信濃教育会
(7) 腰原哲郎S52年『島崎藤村 詩と美術』木づく書房
(8) 伊東一夫S57年『島崎藤村事典新訂版』明治書院
(9) 島崎春樹T9『ふるさと』実業之日本社 T13年32版
(10) 島崎藤村1979『幼きものに』筑摩書房
(11) 三好行雄s52『島崎藤村』学生社
(12) 信濃毎日新聞社編s2『児童読本』1-6巻信濃毎日新聞社
(13) 伊東一夫s48『藤村における旅』木耳社
(14) 生駒甚七他s57『木曾の歴史』郷土出版社
(15) 監修山下生六2000『木曾昭和史』郷土出版社
(16) 島崎藤村s5『藤村少年読本』[尋一の巻109p 二の巻123p 三の巻142p 四の巻149p 五の巻157p 六の巻 なし高等科用(7巻)162p]采文閣
(17) 信濃毎日新聞t15初版『国文読本後期巻一』s711版、s8改訂発行(藤村作品1/11)信濃毎日新聞
(18) 同上t15初版『国文読本後期巻二』s7年11版 s8改訂発行(藤村作品4/12) 信濃毎日新聞
(19) 同上t15初版『国文読本後期巻三』s7年11版 s8年10月改訂発行 s8年12月再販(藤村作品1/13) 信濃毎日新聞


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