18年11月1日、岩永昭夫先生(81歳)のお話を聞く機会があった。以下は要旨である。
★先生は自身の戦争体験について次のように語った。 ―――――――――――――――――――― 昭和18年6月20日、私は横須賀の海軍航空隊に入隊した。人は日本のために死にに行く人を祝ってくれた。その後松山の飛行隊に行った。行ってからT週間で6人が死んだ。空襲によるものであった。その頃、あちこちの島で玉砕されたニュースが入ってきた。「日本は本当に勝つのか」と思った。 20年8月15日に天皇陛下の重大放送があった。「本土決戦の時が来たか」と誰もが思った。しかし、終戦である事が判った。その時嬉しかった。「生きて長野へ帰る事が出来る」と本心で思った。戦争に出発する時、地域では盛大な壮行会をしてくれた。そして、駅まで送ってくれた。その中に校長もいた。汽車に乗り込もうとした時、校長は小さな声で言った。「岩永、死んではいけないぞ」と。終戦になって広島駅を通過した。原爆の後片付けは出来ていなかった。機関の窓から死んだ機関士の腕が出ていた。 ―――――――――――――――――――― 先生は「国は教育基本法、憲法の改正を模索している。日本のように60年間戦争をしなかった国はない。それを今変えようとしている」と言われた。私も戦争は厭だ。防衛は大切だけれど戦争は厭だ。スウェーデンもスイスも国民皆兵制度である。しかし、両国とも長年戦争はしていない。そんな国に私は住みたい。どうしたら、そんな国になれるのであろうか。
★ 精製は仏教の開祖を例に出され「この世の中で一番大切なものは自分である」と言われた。「ゴーマタ・シッダールタ(仏教の開祖)は生まれてすぐ7歩進み、『天上天下唯我独尊』と唱え左手を下に右手は天井を指さした。これはお釈迦様が『自分がこの世で最も尊い存在だ』と宣言した姿である」。 私は何年間か自分より他人を大切にすることに重きをおいていた。しかし、今ゴーマタ・シッダールタの言うように自分をやはり一番大切にしないといけないと思う。自分を大切にし、自分が満たされないと人にも優しい心を馳せる事が出来ないからである。
★先生は「三業(体、ことば、心)の行いはついてまわる。この事を身(しん)口(く)意(い)という」と 言われた。業とは行為の事である。体で行った行為、言葉の行為、心で思った事はどこまでも付いて回り、良い身(しん)口(く)意(い)をしてあれば良い結果が出るというわけである。しかし、人はなかなかそんなわけに行かない。 ことばの行為を例にとってみる。対話の内容を各自検討してみてほしい。愛語がなかなか出来ない。愛語の事例をあげてみる。愛語は道元の著書の第三章にある。向いて愛語⇒本人の前で誉める。面をほころばせ心をたのしませる。すると、ことばはすぐ利きよい方へ心が変化していく。向かわずして愛語⇒AさんのいないところでAさんを誉める。誉める事は相手の人格を認めてやること。愛語は人の心を回転する力を持つ。 次に心の問題を記す。心には、むさぼり、腹立ち、愚痴など人間の悪い部分が皆入っている。むさぼり、腹立ち、愚痴は三毒の煩悩という。人のもっているものを何でも自分のものにしたい⇒満たされないと業がわく。⇒腹立つと愚痴になる。愚痴は病気になった状態である。先生は自分の心と他人の心の関係について上記のような詩を紹介下さった。
身(しん)口(く)意(い)の行為は確かに大切である。確かに言葉は人を悲しませる事も喜ばせる事もできる。横道にそれるが、スペンダーは著書「言葉は女を支配する」で「長い事、女は男の言葉に支配されてきた」と述べている。支配せず男性も妻に愛語を使えば良いと思う。心の問題。自分が厭だと思っていると、相手も厭だと思うらしい。ならば相手を好きだと思えば良い関係になれるのではないかと思う。
鏡に向かふわが姿
つくと向かえば 向こうもつんと 笑って向かえば 笑って返す にらみつければ にらんで返す ほんにこの世は 鏡のかげよ 泣くも笑うも我次第
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